LOGIN「それにしても、何で日比谷を知ってるんだよ」
もっともな疑問だ。検事の数だって、ここ東京では多い。わざわざ個人名が出ると言うことは、勘繰られても仕方がない。 「ああ、会ったんだ」 「会った? 日比谷に? どういうことだ?」 長くなりそうだったので、かいつまんで説明する。新川の表情は、どんどん曇っていった。「そんなことが、な……」
一気にジョッキのビールを飲み干し、テーブルに置く新川。いつになく飲む速度が早い。少しだけ心配になる。 多分、それほどまでに日比谷侑という存在が大きいのだ。新川にここまでさせる男、恐るべし。 「じゃ、日比谷もそういうことだし調査は打ち切るのか?」 彼は、赤い顔でそう問う。酔っているのだろう。普段はそんな素振りすら見せないから、本当に珍しい。 「打ち切らない。ここまでされて、引き下がれるかよ」 日比谷は何かを隠している。新川は手を引くと言ったが、俺は出来ない。どうせ処分はされているのだから、どう動いても問題はない。「まあ、確かにな。日比谷が出しゃばるなら、俺も手伝う。あいつは昔から気に食わないからな」
「心強いな」 新川の手助けは有難い。彼がいれば、日比谷にも立ち向かえるかもしれないから。 「俺を舐めるなよ」 いつになく得意気な新川に、安堵する。二人なら、理不尽な目に遭っても大丈夫。根拠はないが、そう思えた。「じゃあ、俺はもう一度永田霞を洗ってみるか」
新川はそう言い残し、帰って行った。 俺がするべきことは、日比谷が何を隠しているのかを暴くこと。そのためには、他の検察官の協力が不可欠だ。 しかし、現状はそんな知人などいない。俺の方は、既に八方塞がりだ。そもそも、検察の知人と言ってもそいつが日比谷と関わりがなければ意味がない。そして俺は、彼の交友関係を知らない。
何からすればいいのか、わからなかった。憂鬱な気持ちで出勤すると、上司から声をかけられた。
「桜田くん、日比谷副検事が君に用だと」 「また?」 いや、今副検事と言ったか? 言い間違いだろうか。 「また、じゃないよ。日比谷円香副検事」 「誰です?」 侑、じゃない? 今度は名前からして女性っぽいが、聞き覚えがない。 「とりあえず、面会室で待ってもらってるから行ってきて」 「了解しました」 こんな立て続けに用事があると言われると、身構えてしまう。昨日の新川との会話が漏れたのか? 面会室に着くと、ポニーテールの女性が座っていた。 姿勢は正しい。だが、侑のような自信はなさそうだ。副検事だから、まだ若いのだろう。表情もどこか、あどけない。 「桜田正義警部補、ですね」 「……はい。それが?」 女性らしく可愛らしい声で、円香は話し出す。 「私は、日比谷円香と申します。……ここ話すのも何ですし、少し外に出ませんか?」 「ああ、まあ……そちらが良ければ」 ここでは話せない? 何の話だろう。想像がつかない。聞かれて困るような話なのだろうか。面会室を出て、円香が指定したのは電車で数駅行った先にあるカフェだった。確かに、若い女の子が好きそうな雰囲気。
お洒落で、コンセプトがある。俺には場違いにも思えたが、向こうのほうが若そうだ。ここは譲ろう。 「……で、話とは?」 出来れば、さっさと終わらせたい。適当に頼んだコーヒーを一口飲み、用件を聞く。 「桜田警部補……いえ、桜田さん」 円香の声が、優しいものになった。なるほど、これが本来の彼女を言うわけか。 「この間、日比谷侑検事とお話になりませんでしたか」 何となく予想はできていたものの、その話題となると身構える。 そういえば、円香の苗字も日比谷だったな。何か関係が? 「はい。それが何か」 「私はまだ、検察官一年目ですし畏まらなくていいですよ!」 そう言われても、ここはビジネスの場。敬語でないのもおかしい。こいつが、自分から非を認めるとは。それほど心に響いたのか、元から実は素直なやつなのか。 それはわからないが、大きな進展であることは事実だ。「じゃあ……協力してくれるのか。永田霞の一件に」 しかし、侑の表情は曇った。完全に心を許したわけではないようだ。「……僕には立場がある。それ以前に、生活があります。簡単に、協力するなんて言えませんよ」 紅茶をまた一口飲み、彼は続ける。「僕には愛する人がいる。彼女を危険に晒すわけには、いかないんですよ」 なるほど、守るべき人がいるわけだ。彼の事情も考えると、無理強いはできない。 俺だって、彼女がまだ隣にいたなら──そんな無茶はできなかっただろう。「わかった、ありがとう。日比谷検事、無理にとは言わない。できる範囲で、やれることをやってくれないか」「努力はしましょう。ですが……上層部は今、永田霞の事件で神経質になっている。期待はしないでください」 永田霞の件で、侑は恐らくまだ何かを握っている。それを話さないのは、ここでは話せない話だからなのか。それとも、俺たちにまだ信用がないのか。どちらにせよ、いずれ話してくれるのを待つしかない。 侑と解散し、新川と二人で歩く。「……桜田」「何だよ」 新川が、話しかけてきた。声のトーンが高くないので、明るい話題ではなさそうだ。「日比谷のこと、どう思った?」 どう思った、か。少しだけ考えて、答える。「……そうだな。まだ底の読めない男、といったところか」 日比谷侑。絶対に、まだ何かある。それを引き出すまで、俺は彼の全部を信用しない。「あいつはそういう奴さ。昔から、な」「新川、お前……何か知ってるな?」 新川は、確か侑とは大学の同期だったはず。俺の知らない何かを知っていても、不思議ではない。「どうだかな、俺とあいつは仲が悪いから。あいつは昔から、ああ
新川がやっと、口を開いた。「でも、円香嬢が事件を追ってるなんて知ってるやつ何人いるんだよ」 言われてみれば、もっともな疑問だ。あの子は、独自に事件を追っていた。こんな大事なことを、易々と人に口外するわけがない。「俺だって、お前が言うまで知らなかったし」 新川ですら知らないのか。あの事件で、裏と取引しているであろうお前でも……。「なるほど、僕以外の人間がそれを知っているのはおかしい。と」 それでも、侑は驚くほど冷静だ。今のは決定打だと思ったのに、違うのか?「でも、僕は言ったはずだ。あの子は、何でも話す。何でも話すと言うことは、顔にも出やすい。鋭い人なら、そもそも言わずに察せる。違うかい?」「……円香さん本人に聞いても?」「どうぞ。でも、彼女の知らないところで察されている可能性をお忘れなく」 これでは、負けてしまう。日比谷侑、本当に化け物のような論理の持ち主だ。 この歳で検事十五号なのは、伊達ではないらしい。「それでも、円香嬢がこの事件を追ってることはお前知ってるんだろ? 日比谷よぉ」 新川も、加勢してはくれている。この状況を何とか活かしたい。 侑はといえば、穏やかに紅茶を飲んでいる。その余裕は、本当に崩せるのだろうか。「知ってるさ。彼女は僕の従兄妹なのだから」 埒があかない。このままでは逃げられてしまう。 いや、そもそも今の目的は彼を折ることではない。上層部に、円香の左遷を取り消させることだ。 だとしたら、彼を追い詰めるのは避けた方がいいかもしれない。 「……日比谷検事、どうしてそこまで上層部に何か言うのを避けるんだ?」 仮にも従兄なのであれば、もう少し情があっても良さそうだが。それが通じないのも法の世界、か。「……僕が言ったところで、止まるとでも?」 確かに。彼が何かを言ったところで、左遷の取り消しにはならないだろう。「……円香さ
家に帰って、一人で考える。 俺なんかが、人を守ってもいいのだろうか。あんなに愛していた妻からは、仕事の多忙を理由に離婚された。親権も妻に渡った。 それでいい、そうあるべきだ。自分の感情を押し殺すことにも慣れている。 それでも、あの子を守ってあげたい。気がつけば、そう考えてしまっている。 メッセージの着信があったのは、その時だった。『何故、貴方が僕の連絡先を知っているのですか』 その疑問はもっともだった。侑からすれば、一度会っただけの人間から来た連絡だ。疑うのも、当然と言える。『それも含めて、もう一度話がしたい』 そう返すと、連絡は止んだ。恐らく、考え込んでいるのだろう。 十分ほどあって、もう一度連絡が来た。『わかりました。次の日曜日を空けておきます。銀座駅に集合でお願いします』 淡々とした、侑らしい返事。それでも、少しは手応えがありそうだ。 侑には悪いが、新川にも同席してもらうことにする。彼の感情を揺さぶれるのは、俺ではなく新川の方だ。今回のキーパーソンと言えるだろう。 新川からも了承してもらい、次の日曜日になった。「よっ」 銀座駅に先に着いたのは、意外にも新川だった。休日の格好は初めて見たが、ブランドのシャツとパンツは彼の容姿を一層際立たせている。 こいつ、自分の見せ方がわかってるな。 俺も、それなりにはきちんとした服装なのに。新川がこれでは庶民的に見える。「あ、日比谷まだ来てねーの? 珍しいな、あいつ遅刻とかしないのに」「まだ集合時間にはなっていないしな。待とう」 他愛のない話で時間を潰していると、新川の目線が移動した。その方角を見ると、見知った人影があった。「……何で君までいるんですか?」 それが侑の第一声だった。察してはいたが、やはり犬猿の仲らしい。「俺がいたら悪いのかよ」「悪いですね。これは、僕と桜田さんの約束だ。君が入る余地はない」 何だか痴話喧嘩みたいになってきた。周りの視線も気になってくるし、移動した方が良さそうだ。「とりあえず、落ち着いて座れるところに行こう」 銀座のカフェは、どこも混んでいる。それに高い。気後れするような場所なのに、侑はやけに落ち着いていた。 新川も落ち着いてはいるので、俺だけ気張っているのかもしれない。「それで? 新川まで引き連れて僕に話って何なんですか? あと、連絡
円香からメッセージが来たのは、退勤後すぐのことだった。『桜田さん、話せる? あんまり職場から近いところでは話せないから、ちょっと離れたカフェで』 添付された地図は、渋谷のものだった。確かに、若い子が好きそうなエリアだ。 了解、と返事をし向かう。もうすぐアラフォーにもなろうという男が入るには、いささか気後れする内装だ。 一面ピンク色だし。何だかわからないが、キャラクターのグッズも置かれている。 こう言うのが好きなのだろうか。「桜田さん! こっちだよ! こっち!」 元気な声で、俺を誘導する円香。聞かれたらマズいと言いながら目立とうとするのは、天然なのか。そうなのだろう。「それで、話ってなんだ?」 席に着いたので、本題を切り出す。「ああ、うん……実はね……」 しかし、円香は急にどもり始めた。そんなに言いづらいことなのだろうか。 数分過ぎた後、彼女は小さな声で呟いた。「桜田さんとは、もう会えないかもしれないんです」「どういうことだ?」 理解ができなかったので、問い返す。もう会えない? 何かあったのは間違いない。「実は……青森地検に異動になっちゃって」「異動?」 随分と急な辞令だな。そんなこと、あり得るのか? あり得なくはないのが、この事件か。俺が転勤になっていないのは、今や奇跡と言える。「今日、出勤したらいきなりそう言われて……」「昨日、あの後に何かあったか?」 昨日の今日で、いきなりそうなるとは考えづらい。何か理由があるはずだ。「昨日は、あの後侑くん……あ、日比谷侑検事とお話したんです」「彼と……?」 そういえば、説得するとか言ってたな。この様子では、結果を察せるが。「結果は?」 それでも、一応聞いておく。「私は甘いって……痛い目を見るって言われちゃいました」「それが、青森地検への異動?」「……そう、なのかも。わからないですけど」 それがわからないほど、この子は馬鹿じゃないだろう。 わかっていても、認めたくないだけだ。「じゃあ、これからどうするんだ?」「青森に行かなかったら、クビですよ。行くしかないです」 二回しか会っていないが、今にも泣きそうな彼女は初めて見た。 どんな時でも明るいイメージだったから、意外な一面だ。「でもね……最後に仕掛けようと思うんです」「仕掛ける?」 どうやら、本題は
桜田さんと別れた後、検察庁に戻る。いつも静かで、ちょっとだけ居心地が悪い。 侑くんは、デスクで書類の整理をしていた。後ろからそっと声をかける。「ゆ……日比谷侑検事」「……何ですか、日比谷円香副検事」 少し間があって、声が返ってきた。 「あの、お話ししたいことがあって」「それは、今じゃないとダメなんですか?」 仕事中だからか、冷徹な答えしか返ってこない。いやでも、ここでめげちゃダメだよね。「あ、いえ……お仕事が終わった後でも大丈夫です」 でも、怖い。そもそも、仕事の話ではあるけど……立場が逆だもん。忙しそうだし、今は引いた方がいいよね。「では、仕事があるので。仕事終わりに、また声をかけてください」 そう言って、侑くんの視線はまた書類に向いた。これ以上、何か言っても今は無駄みたい。 私も仕事に戻ろう。やることは、こっちにもあるし。 時間が経つとともに、不安になってくる。 私で、侑くんを説得できるのかな? いくら従兄弟とは言っても、年上のエリートを。 彼は、感情を見せない。昔からずっとそう。日比谷家では、それが美徳とされてきたから。 私や、私の兄は感情豊かな方だと思うけど。それは、この家にとっては異端そのもの。それで褒められたことなんて、当然ない。 それでも、私がやるんだ。これは、お兄ちゃんに頼れないし。 覚悟を決めて退勤すると、エントランスに侑くんの姿が見えた。「円香、遅かったな」 仕事の時とは違う、穏やかな口調。これが本当の侑くん。私の好きな、男性像そのもの。「侑くんが早すぎるの!」 軽口を叩けるのは、いつまでなのかな。これからする話が、関係を壊しちゃうのかな。 不安でいっぱいだけど、ここまできて話さないのも不誠実だよね。「それで、話って? 個人的なことか?」 もう、やるしかない!「あ、ええっと……桜田さんのことなんだけどね」「桜田?」 ……もしかして、忘れてるのかな。いや、そんな訳ないよね。自分で釘を刺しに行くくらいだし。「ほら、桜田正義警部補だよ。侑くん、会ったんでしょ?」 少しだけ間があいた。こう言う時の侑くん、何よりも怖いかも。「……ああ、それが?」「侑くんは、そんなやり方でしか人を守れないわけじゃないと思うの」 心臓が、ずっとドキドキしてる。でも、侑くんならわかってくれるはず。「……そ
「そんなこと言っても、ビジネスですし」「私はビジネスのつもりじゃないですよ。桜田さん個人に、話があったんです」 個人に話? では、事件は無関係なのか? 流石にそう考えるのも安直か。円香は続ける。「侑くん……日比谷侑検事は私の従兄弟なんです」「従兄弟?」「はい、昔は仲も良くて。家も近かったから、ほんとにお兄ちゃんみたいな」 親族であるなら、確かに苗字が同じでもおかしくはない。それにしても、家族揃って検察とは優秀な一族だ。「それで……侑くんが桜田さんに接触したって本人から聞いたんです。ただ、侑くん……凄く苦しそうだった」「苦しそう?」 あの冷徹そうな男が? あまり想像がつかない。「侑くんは、誰よりも正しい。正しいから、苦しむんです。本当は、永田霞のことも全部わかってる。だけど、本当のことを突き止めた時に被害が及ぶのは桜田さん。だから、侑くんは桜田さんを遠ざけようとしてるんだと思います。この事件から」 それは、お人好しすぎるというか。確かにいい見方をすればそうなのかもしれないが、この子の身内贔屓が入っているのでは?「証拠は?」「うっ……それは……」 やはり、直感らしい。それでも、この一途さはもう俺にない。正直、眩しい。まだ二十六歳、俺から見れば一回り近く下だ。守ってあげたくもなる。少しだけ、信じてみてもいいかもしれない。「まあ、言いたいことはわかる。君のことを信じてみよう」「わあ! ありがとうございます!」 彼女の表情が明るくなる。本当は、笑顔の絶えない子なのだろう。「俺は何をしたらいい?」「桜田さんには、証拠を集め直してほしいんです。私は、侑くんを説得する。完璧でしょ?」 あの検事の説得なんて、出来るのか? それでも今は、彼女を信じると決めた。俺が信じなくて、どうする。「わかったよ」「はい、で……これ私の連絡先です! 何かあったら、ここにお願いします」 円香は、名刺を手渡してきた。それを受け取り、俺も名刺を渡す。「じゃ、私はお仕事があるのでこれで! 桜田さん、一緒に頑張ろうね!」 侑とは正反対の、お転婆娘だった。俺も証拠を洗い直すか。